中公文庫プレミアム 編集部だより

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SP時代の名曲名盤

クラシック音楽は、作曲家が楽譜に残した作品を、演奏家が再現する芸術です。たとえ200年前に書かれた楽曲でも、今の時代に演奏されれば、そこに新たな創造があり、聴く人に感銘を与えることができます。特定の時代の誰かの解釈が「絶対」ということはありません。録音技術の発達により、新しい録音のほうが、音質がすぐれ臨場感溢れる演奏を再現できる、ということはあるでしょう。しかし、録音の優劣を超えて、深い感動をもたらす素晴らしい演奏、というのもあります。

あらえびす『名曲決定盤』は、アコースティック録音(ラッパ型の集音器により、機械的に原盤に音を刻む方式=旧吹込み・骨董レコード)から、電気録音(マイクを通して、音を電気信号に変換し記録する方式)に移行した時期、主として最新の電気録音から、名盤を厳選したものです。その基準としたのが、「よき曲、よき演奏、よき録音」という蒐集道の法三章でした。

「あらえびす」こと野村長一は、クラシック音楽、レコードの評論家としてよりも、「野村胡堂」の筆名で書き継いだ『銭形平次捕物控』の作家として知られています。テレビ時代劇で、大川橋蔵投げ銭を決める姿を思い浮かべる方も多いでしょう。その「銭形平次」執筆中は、もっぱらバッハのレコードをかけ続けていたと言われています。

『名曲決定盤』の構成は、ヴァイオリン、ピアノといった器楽曲、弦楽四重奏などの室内楽、歌曲やアリアなどの声楽曲、指揮者とオーケストラという並びになっています。この文庫版では、上巻を「器楽・室内楽篇」、下巻を「声楽・管弦楽篇」の二分冊としています。今だとクラシックCDのガイド本は、指揮者とオーケストラが大きな割合を占めますが、本書では、この部分が手薄です。それもそのはず、電気録音になってもSP盤ですから、再生時間は片面5分未満で、交響曲となると製作するほうも聴くほうも容易ではありません。SPレコードが何枚も入ったアルバムのようなものが売られていましたが、とても高価でした(今も、シングル盤に対して、曲集を「アルバム」と呼ぶのは、これが語源です)。

ベートーヴェンの第九だと、SPでは9枚(18面)を要したのです。ちなみにLPだと1枚半、速い演奏だとぎりぎり1枚に収まったのを思い出します。CDの最大収録時間を70分強としたのは、第九が1枚に収まるようにとの指揮者カラヤンの意向があったと言われています。

そういうわけで、あらえびすが挙げる究極のレコードは「ピアノならコルトーから一枚、ヴァイオリンならクライスラーを一枚」ということになるのです。

しかし、過去30年間にわたる1万枚の蒐集レコードから、名盤を紹介しているのですから、そのセレクションは、現代でも十分傾聴に値します。そして幸いなことに、ここに紹介されている多くの演奏は、インターネット環境の飛躍的進歩によって、アクセスすることが可能になっています。

たとえば、本書で、あらえびす自身が日本ビクターに対して発売を働きかけたエピソードが語られる、シャルク指揮ウィーン・フィルベートーヴェン交響曲第5番「運命」の演奏も、YouTubeにアップされ聴くことができます。


Franz Schalk conducts Beethoven:Symphony No.5 フランツ ...

文庫解説で、演奏史譚の山崎浩太郎さんは、「モーツァルトストラヴィンスキーの偉大さを比較することが難しいように、過去の演奏と現代の演奏の優劣を比較することは、簡単なようでじつは難しい。それぞれがその時代に属していて、それぞれに価値がある。レコードにおける名演奏の歴史は、次々と塗りかえられるものではなく、つみかさなっていくものだ。あらえびすは、一九三九年という『現在』における名演奏について、魅力つきない語り口で、語ってくれている。後世に、かけがえのない『現在』を遺してくれているのだ」と述べています。こうして本書を片手に、SP時代の名曲名盤を楽しむ時代が、ついに訪れたと言えるのかもしれません。

なお、あらえびすの出生地、岩手県紫波町には「野村胡堂・あらえびす記念館」があります。その多才な事績を、遺されたレコードコレクションなどとともに知ることができます。

http://kodo-araebisu.jp/

 

 

名曲決定盤(上) - 器楽・室内楽篇 (中公文庫プレミアム)

名曲決定盤(上) - 器楽・室内楽篇 (中公文庫プレミアム)

 

 

 

名曲決定盤(下) - 声楽・管弦楽篇 (中公文庫)

名曲決定盤(下) - 声楽・管弦楽篇 (中公文庫)