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長男が語る『沖縄決戦 高級参謀の手記』著者、八原博通大佐の「戦後」

編集者Fです。

 

5月25日刊の中公文庫プレミアム『沖縄決戦 高級参謀の手記』は、昭和47(1972)年に読売新聞社から刊行されて以来、43年ぶりの復刊になります。

 この書は、昭和42年1月から50年にかけ『読売新聞』で長期連載された「昭和史の天皇」の取材過程で「発掘」されたものです。
「生きて虜囚の辱めを受けず」(戦陣訓)という風潮が根強かったなか、沖縄戦を戦った第三十二軍司令部でただ一人生き残った著者の八原博通元大佐は、戦後いっさい公職に就かず、故郷の鳥取県米子市皆生(かいけ)で逼塞中ひそかに手記を書き綴っていました。その手記が公刊された経緯は、文庫巻末に「昭和史の天皇」執筆メンバーだった松崎昭一さんがお寄せいただいた文章に詳しく書かれています。

 さて今回の復刊にあたり、八原元大佐の長男であり、著作権継承者でもある和彦氏に、上述の松崎昭一氏と、解説を執筆していただいた戸部良一氏とともに、席を設けて戦後の八原元大佐について、お話を伺った事がありました。その折りの和彦氏の談話を、以下、要約してご紹介します。

 

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 戦前の父の印象ですか。
 思い出といえば、私が小さかった頃、一緒に山歩きをしたことです。父は陸軍参謀として、国内のさまざまな地域を視察していました。時折、私が連れて行ってもらったのも、そのようなときかと思います(注/国内で演習を行う際の事前準備か)
 当時、私たち一家は、東京・世田谷の借家住まいでした。若い頃の父はけっこう怖かったです。ただ、「軍人になれ」と教育されたことはありません。父が軍人ということで、特別他所の家族と違っていたとは感じませんでした。当時としてはごく普通の親子だったと思います。
 ただ、私は昭和8(1933)年生まれで、物心がついたころはすでに戦時中でした。なんとなく、いずれは自分も戦争に行って死ぬんだと思っていました。で、海軍兵学校に入りたいとか、漠然と軍人に憧れてはいましたが、特に父と、そういう事について話したことはありません。
 父が沖縄に「出征」したのは昭和19年で、私はまだ11歳でした。当時、将兵の派遣先は軍事機密だったのでしょうが、なぜか父が沖縄にいることは、なんとなく知っていました。父の出征と前後して私たち一家は、父の実家のある鳥取県米子市皆生に疎開しました。昭和20年8月15日の玉音放送は、夏休みだったので家で聞いたのですが、陛下が何をおっしゃっているのかよく分からず、後で母に「戦争に負けたの」だと教えられました。恐ろしかったですね。アメリカ軍が来たら殺されると思い込んでいましたから。
 その頃の生活はほんとうに大変でした。母は、果物の行商をして生計を立てていました。山の農家から梨や柿を買い取り、大八車に乗せて売りにいくのです。私も母と一緒に大八車を押しました。伯耆大山だいせん)まで果物を買いにいったこともありましたよ。
 父が復員してきたのは昭和21年になってからです。東京にいた母方の祖父(陸軍中将・清水喜重)から「明日、そちらに着くはずだ」と連絡が入ったのです。父が生きていたなんてまったく知らず(母は少し前に祖父からの連絡で生存を知ったようです)、亡くなったものとばかり思っていましたから、びっくりしましたよ。近所の方々が沢山挨拶にお見えになったのは覚えていますが、家族として特にお祝いをしたかどうかは記憶にありません。
 復員してきたときの父の様子ですか?特に落ち込んでいるとか、憔悴した様子は見えませんでした。休む間もなく仕事を探したり、第三十二軍の残務整理部長となって千葉に赴任したりしていて、自分のことにいそがしい中学生にはあまり印象に残らなかったのかもしれません。
 父が復員しても生活は厳しいものでした。軍人恩給も廃止されたので、母との洋服生地の行商の稼ぎが頼りでした。父の実家から少しばかりの畑を分けてもらい、作物を育てたりもしました。そんな状態でしたから、私も高校を卒業したら就職しなければならないと思っていました。
 ところが、父が急に「大学に行け」と言い出したのです。学費のかからない防衛大学(昭和27年創立)も頭に浮かんだのですが、父は必ずしもいい顔はせず、「理系がいい」という。
 父が戦後、自衛隊を含め軍関係について何かを語ったことはありません。戦後いっさい公職にはつきませんでしたし、陸軍士官学校の同期会には顔を出していましたが、軍関係の人とのおつきあいもその程度だったようです。父が戦後つけていた日記も、家族や地域にまつわる雑事がほとんどで、たまに時事問題に触れることはあっても戦争についての記述はありません。沖縄戦についての大部の手記を綴っていたことは、私は知りませんでした。
 戦後私は戦記ものなどで、生きて帰ってきた父についての批判的な記述を見るたびに、息子として悩んだものです。それは、軍人として、また参謀という立場でどう責任をとるべきものなのか私には分からなかったからです。
 結局、私は父の勧めに沿って薬学に進みましたが水が合わず、経済学部に入り直します。卒業後は化学会社に就職して社会人となります。
 ですから昭和42年に松崎さんが父を訪ねて皆生に取材に来られた頃は、私は故郷を離れていたので、その頃の父の様子は詳しくは分かりません。ただ、私自身にとってみれば、「沖縄決戦」を読むことによってはじめて沖縄戦についての父の思いを知ることができました。そして、父が生きて帰ってきたことについての疑問や悩みも、かなり解消されました。
 「昭和史の天皇」や沖縄返還をきっかけに、世間で沖縄戦がクローズアップされ、昭和46年には映画『激動の昭和史 沖縄決戦』(岡本喜八監督)が製作され、父の役を仲代達矢さんが演じられた。仲代さんは皆生まで父を訪ねてこられたそうで、わが家に台本が残っています。
 『沖縄決戦』が単行本として刊行される頃、父が突然「東京に住む」と言い出しました。以前から「自分は皆生で死ぬから、その後は母さんを頼む」と言っていた父が、どういう心境の変化かと戸惑いましたが、妹が住んでいた鎌倉に土地を買って家を建てました。当初は同居するつもりでしたが、ちょうど私が大阪に転勤になったため、鎌倉の家には父と母だけが住むことになりました。鎌倉では頼まれて老人会の会長を務めるなどして10年近くを過ごして、昭和56年にこの世を去りました。
 私は、終戦後50年になる平成7年、沖縄の慰霊祭に行きました。地元沖縄の方々が旧軍について抱かれているお気持ちについていろいろ聞いていましたから、行くまでは正直、八原大佐の息子ということでどんな目で見られるか不安がありましたが、それは杞憂でした。沖縄の方々はとても歓迎してくださったのです。
 慰霊祭では何人かの方には、こちらから何も言わなくても、私を見るなり、八原とわかったようで(あるいは父そのものと思われて?)、びっくりされました。またある戦跡で、一人でお線香をあげて拝んでいましたら、見知らぬ方から声を掛けられました。九州出身で、第三十二軍の通信兵の方でした。「八原大佐が歩いて司令部に行かれるのをいつも見ていました」とおっしゃっていました。
 また、当時二十歳くらいで、司令部で働いていたという女性にもお会いしました。父のことを、とても高く評価してくださっていました。そして、あのアメリカ軍の猛攻撃のさなか、摩文仁まで退却した時でさえ、「負ける」とは思っていなかったとお聞きしたときは、平時の想像を超える状況を知ることができました。一方的な論評による先入観を持ってはいけないですね。
 その後、終戦後60年の時にも慰霊祭に参加させていただきましたが、この時も、特に辛い思いを味わうことはありませんでした。世間では沖縄についていろいろと言われますが、やはり、現地に行ってみないとわからないものだと感じましたね。

 

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沖縄決戦 - 高級参謀の手記 (中公文庫プレミアム)

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