中公文庫プレミアム 編集部だより

永遠に読み継がれるべき名著を、新たな装いと詳しい解説つきで! 「中公文庫プレミアム」を中心に様々な情報を発信していきます!

中公文庫プレミアム6月刊発売開始のお知らせ

編集者Fです

 

6月25日刊中公文庫プレミアムが発売開始されます。

 

今回は、以下の2冊です。 

 

松本重治『上海時代』(

上海事変直後に聯合通信上海支局長として中国に赴任、「租界」という形で欧米や日本の権益が複雑に絡み合い、抗日テロが頻発する同地にあって、取材活動の傍ら、勃発した日中戦争の収拾に尽力したジャーナリストの手記。解説は加藤陽子さんです。

 

あらえびす『名曲決定盤(上)器楽・室内楽篇

銭形平次』の原作者であり、一万枚のレコードを蒐集するほど無類の音楽好きだった野村胡堂が、「あらえびす」のペンネームで、クライスラー、エルマン、コルトー、カサルスといった往年の巨匠たちの演奏を、情熱的な筆致で評した古典的名著。

 

是非、ご一読を!

 

 

上海時代(上) - ジャーナリストの回想 (中公文庫プレミアム)

上海時代(上) - ジャーナリストの回想 (中公文庫プレミアム)

 

  

上海時代(下) - ジャーナリストの回想 (中公文庫プレミアム)

上海時代(下) - ジャーナリストの回想 (中公文庫プレミアム)

 

  

名曲決定盤(上) - 器楽・室内楽篇 (中公文庫プレミアム)

名曲決定盤(上) - 器楽・室内楽篇 (中公文庫プレミアム)

 

 

もう一つの『沖縄決戦』

編集者Fです。

 

5月25日発売の中公文庫プレミアム『沖縄決戦 高級参謀の手記』ですが、発売後半月にして増刷が決まりました。

 

沖縄決戦 - 高級参謀の手記 (中公文庫プレミアム)

沖縄決戦 - 高級参謀の手記 (中公文庫プレミアム)

 

 

前回のブログで、著者である八原博通元大佐の長男である八原和彦氏の「談話」を掲載いたしましたが、SNSなどでは、「映画『沖縄決戦』で八原大佐を演じた仲代達矢さんが、八原さん本人に会っていたのか!」と驚く声が見られました。

 

映画『激動の昭和史 沖縄決戦』は、沖縄返還の前年である1971(昭和46)年に、東宝のいわゆる「8・15シリーズ」(『日本のいちばん長い日』に始まる)として公開されました。脚本は新藤兼人、監督は岡本喜八。配役は、第三二軍司令官牛島中将に小林桂樹、参謀長・長勇に丹波哲郎、「沖縄県民かく戦えり」の電報で有名な沖縄方面根拠地司令官・太田実に池部良、陸軍参謀総長梅津美治郎東野英治郎の他、岸田森(軍医)、高橋悦史(賀谷中佐)、田中邦衛(司令部壕付きの散髪屋)といった懐かしい「岡本組」の面々がずらりと顔を揃えています。

 


BATTLE OF OKINAWA 激動の昭和史 沖縄決戦 - Original ...

 

 で、別に連動した企画ではないのですが、この映画も五月二十日にDVDが発売されています。

 

もちろん、「ひめゆり部隊」や「鉄血勤皇隊」をはじめとする非戦闘員を巻き込んだ悲惨な沖縄戦の実態が描かれますが、物語の推進役となるのは、名優三人が演じる第三二軍司令部です。

豪放磊落で情緒に流されやすい丹波哲郎の長参謀長、温厚で自分の意見を述べずバランサーに徹する小林桂樹牛島司令官のなかにあって、終始、情に流されることなく冷徹に戦略を組み立てようとする仲代達矢の八原大佐。

にこにこしているだけで戦争指揮は参謀に任せっぱなしの牛島司令官や、戦争が始まる前はやたら威勢がいいのに始まってしまってからは病気で寝転がってうなされている長参謀長にはイライラさせられましたが、それ以上にイライラさせられたのは、沖縄を「本土決戦を前にした捨石」としか思っていない、東京の軍中央の連中でした。

そんななかにあって、現在の状況でどう戦えば、少しでも日本軍にとって有利になるか、つとめてそこに精神を集中させようとする、八原大佐の姿が印象的でした。

 

実際の八原大佐が沖縄決戦で果たした役割や、彼が考案した戦術についての評価は、さまざまでしょう。ただ、八原大佐が、ぎりぎりの状況のなかで作戦立案を一身に背負わされ、日一日と不利な状況に襲われるなか、最後まで「高級参謀」として戦おうとしたことは沖縄決戦 高級参謀の手記』で十分に伝わってくると思います。

 

ちなみに、この『激動の昭和史 沖縄決戦』には、沖縄戦当時の沖縄県知事・島田叡(神山繁)も登場します。決戦前夜に決死の覚悟で赴任した島田知事については、田村洋三著『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり』に詳しく描かれています。

 

沖縄の島守―内務官僚かく戦えり (中公文庫 (た73-1))
 

 

著者の田村洋三さん(1931年生まれ)は、長年、太平洋戦争の犠牲者やその遺族を取材してきた、元読売新聞記者。『激動の昭和史 沖縄決戦』で八原大佐を演じた仲代達矢さんとは一歳違いです。

 

仲代さんが自身の俳優人生をつづった『遺し書き 仲代達矢自伝』を中公文庫として復刊する際、編集を担当しました。このとき仲代さんは、小学生のとき疎開から帰ってきたら同級生の多くが空襲で亡くなった事に触れながら、その年にご自身が舞台で演じられた役柄に事寄せて「ドンキホーテじゃないですが、私は平和憲法を支持します」と語っておられました。

 

遺し書き―仲代達矢自伝 (中公文庫)

遺し書き―仲代達矢自伝 (中公文庫)

 

 

戦後70年。

戦争の記憶はどんどん風化していくなか、国際的環境は大きく変化しています。

そんななか、実際の「戦争」を経験した人々の「声」を、さらに紹介していきたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長男が語る『沖縄決戦 高級参謀の手記』著者、八原博通大佐の「戦後」

編集者Fです。

 

5月25日刊の中公文庫プレミアム『沖縄決戦 高級参謀の手記』は、昭和47(1972)年に読売新聞社から刊行されて以来、43年ぶりの復刊になります。

 この書は、昭和42年1月から50年にかけ『読売新聞』で長期連載された「昭和史の天皇」の取材過程で「発掘」されたものです。
「生きて虜囚の辱めを受けず」(戦陣訓)という風潮が根強かったなか、沖縄戦を戦った第三十二軍司令部でただ一人生き残った著者の八原博通元大佐は、戦後いっさい公職に就かず、故郷の鳥取県米子市皆生(かいけ)で逼塞中ひそかに手記を書き綴っていました。その手記が公刊された経緯は、文庫巻末に「昭和史の天皇」執筆メンバーだった松崎昭一さんがお寄せいただいた文章に詳しく書かれています。

 さて今回の復刊にあたり、八原元大佐の長男であり、著作権継承者でもある和彦氏に、上述の松崎昭一氏と、解説を執筆していただいた戸部良一氏とともに、席を設けて戦後の八原元大佐について、お話を伺った事がありました。その折りの和彦氏の談話を、以下、要約してご紹介します。

 

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 戦前の父の印象ですか。
 思い出といえば、私が小さかった頃、一緒に山歩きをしたことです。父は陸軍参謀として、国内のさまざまな地域を視察していました。時折、私が連れて行ってもらったのも、そのようなときかと思います(注/国内で演習を行う際の事前準備か)
 当時、私たち一家は、東京・世田谷の借家住まいでした。若い頃の父はけっこう怖かったです。ただ、「軍人になれ」と教育されたことはありません。父が軍人ということで、特別他所の家族と違っていたとは感じませんでした。当時としてはごく普通の親子だったと思います。
 ただ、私は昭和8(1933)年生まれで、物心がついたころはすでに戦時中でした。なんとなく、いずれは自分も戦争に行って死ぬんだと思っていました。で、海軍兵学校に入りたいとか、漠然と軍人に憧れてはいましたが、特に父と、そういう事について話したことはありません。
 父が沖縄に「出征」したのは昭和19年で、私はまだ11歳でした。当時、将兵の派遣先は軍事機密だったのでしょうが、なぜか父が沖縄にいることは、なんとなく知っていました。父の出征と前後して私たち一家は、父の実家のある鳥取県米子市皆生に疎開しました。昭和20年8月15日の玉音放送は、夏休みだったので家で聞いたのですが、陛下が何をおっしゃっているのかよく分からず、後で母に「戦争に負けたの」だと教えられました。恐ろしかったですね。アメリカ軍が来たら殺されると思い込んでいましたから。
 その頃の生活はほんとうに大変でした。母は、果物の行商をして生計を立てていました。山の農家から梨や柿を買い取り、大八車に乗せて売りにいくのです。私も母と一緒に大八車を押しました。伯耆大山だいせん)まで果物を買いにいったこともありましたよ。
 父が復員してきたのは昭和21年になってからです。東京にいた母方の祖父(陸軍中将・清水喜重)から「明日、そちらに着くはずだ」と連絡が入ったのです。父が生きていたなんてまったく知らず(母は少し前に祖父からの連絡で生存を知ったようです)、亡くなったものとばかり思っていましたから、びっくりしましたよ。近所の方々が沢山挨拶にお見えになったのは覚えていますが、家族として特にお祝いをしたかどうかは記憶にありません。
 復員してきたときの父の様子ですか?特に落ち込んでいるとか、憔悴した様子は見えませんでした。休む間もなく仕事を探したり、第三十二軍の残務整理部長となって千葉に赴任したりしていて、自分のことにいそがしい中学生にはあまり印象に残らなかったのかもしれません。
 父が復員しても生活は厳しいものでした。軍人恩給も廃止されたので、母との洋服生地の行商の稼ぎが頼りでした。父の実家から少しばかりの畑を分けてもらい、作物を育てたりもしました。そんな状態でしたから、私も高校を卒業したら就職しなければならないと思っていました。
 ところが、父が急に「大学に行け」と言い出したのです。学費のかからない防衛大学(昭和27年創立)も頭に浮かんだのですが、父は必ずしもいい顔はせず、「理系がいい」という。
 父が戦後、自衛隊を含め軍関係について何かを語ったことはありません。戦後いっさい公職にはつきませんでしたし、陸軍士官学校の同期会には顔を出していましたが、軍関係の人とのおつきあいもその程度だったようです。父が戦後つけていた日記も、家族や地域にまつわる雑事がほとんどで、たまに時事問題に触れることはあっても戦争についての記述はありません。沖縄戦についての大部の手記を綴っていたことは、私は知りませんでした。
 戦後私は戦記ものなどで、生きて帰ってきた父についての批判的な記述を見るたびに、息子として悩んだものです。それは、軍人として、また参謀という立場でどう責任をとるべきものなのか私には分からなかったからです。
 結局、私は父の勧めに沿って薬学に進みましたが水が合わず、経済学部に入り直します。卒業後は化学会社に就職して社会人となります。
 ですから昭和42年に松崎さんが父を訪ねて皆生に取材に来られた頃は、私は故郷を離れていたので、その頃の父の様子は詳しくは分かりません。ただ、私自身にとってみれば、「沖縄決戦」を読むことによってはじめて沖縄戦についての父の思いを知ることができました。そして、父が生きて帰ってきたことについての疑問や悩みも、かなり解消されました。
 「昭和史の天皇」や沖縄返還をきっかけに、世間で沖縄戦がクローズアップされ、昭和46年には映画『激動の昭和史 沖縄決戦』(岡本喜八監督)が製作され、父の役を仲代達矢さんが演じられた。仲代さんは皆生まで父を訪ねてこられたそうで、わが家に台本が残っています。
 『沖縄決戦』が単行本として刊行される頃、父が突然「東京に住む」と言い出しました。以前から「自分は皆生で死ぬから、その後は母さんを頼む」と言っていた父が、どういう心境の変化かと戸惑いましたが、妹が住んでいた鎌倉に土地を買って家を建てました。当初は同居するつもりでしたが、ちょうど私が大阪に転勤になったため、鎌倉の家には父と母だけが住むことになりました。鎌倉では頼まれて老人会の会長を務めるなどして10年近くを過ごして、昭和56年にこの世を去りました。
 私は、終戦後50年になる平成7年、沖縄の慰霊祭に行きました。地元沖縄の方々が旧軍について抱かれているお気持ちについていろいろ聞いていましたから、行くまでは正直、八原大佐の息子ということでどんな目で見られるか不安がありましたが、それは杞憂でした。沖縄の方々はとても歓迎してくださったのです。
 慰霊祭では何人かの方には、こちらから何も言わなくても、私を見るなり、八原とわかったようで(あるいは父そのものと思われて?)、びっくりされました。またある戦跡で、一人でお線香をあげて拝んでいましたら、見知らぬ方から声を掛けられました。九州出身で、第三十二軍の通信兵の方でした。「八原大佐が歩いて司令部に行かれるのをいつも見ていました」とおっしゃっていました。
 また、当時二十歳くらいで、司令部で働いていたという女性にもお会いしました。父のことを、とても高く評価してくださっていました。そして、あのアメリカ軍の猛攻撃のさなか、摩文仁まで退却した時でさえ、「負ける」とは思っていなかったとお聞きしたときは、平時の想像を超える状況を知ることができました。一方的な論評による先入観を持ってはいけないですね。
 その後、終戦後60年の時にも慰霊祭に参加させていただきましたが、この時も、特に辛い思いを味わうことはありませんでした。世間では沖縄についていろいろと言われますが、やはり、現地に行ってみないとわからないものだと感じましたね。

 

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沖縄決戦 - 高級参謀の手記 (中公文庫プレミアム)

沖縄決戦 - 高級参謀の手記 (中公文庫プレミアム)

 

 

中公文庫プレミアム5月号発売開始!

編集者Fです

 

5月25日刊中公文庫プレミアムが発売開始されます。

 

今回は、以下の1冊です。 

 

吉田茂大磯随想・世界と日本

政界を引退したワンマン宰相が、日本政治の「貧困」を憂いつつ未来への希望をこめ、その政治思想を余すことなく語りつくしたエッセイ。解説は井上寿一さんです。

 

八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記

司令部でただ一人生き残った著者が、凄惨な沖縄戦の全貌を綴った渾身の手記。43年ぶりの復刊。解説は戸部良一さんです。

 

是非、ご一読を!

 

 

大磯随想・世界と日本 (中公文庫 よ 24-11)

大磯随想・世界と日本 (中公文庫 よ 24-11)

 

  

沖縄決戦 - 高級参謀の手記 (中公文庫 や 59-1)

沖縄決戦 - 高級参謀の手記 (中公文庫 や 59-1)

 

 

  

 

   

誰が「軍備放棄」を言い出したのか・・・憲法記念日と幣原喜重郎『外交五十年』

編集者Fです。

 

中公文庫プレミアム、4月刊は、幣原喜重郎外交五十年』と、読売新聞戦後取材班編『昭和戦後史 「再軍備」の軌跡』の2冊です。

 

ところで、なぜ4月25日という時期に、この2冊を刊行したのか。実は、理由があります。

 

たとえば、8月15日の終戦記念日前後になりますと、テレビや雑誌で先の戦争(大東亜戦争、太平洋戦争、第二次世界大戦十五年戦争と呼び名は様々ですが)についての特集番組や特集企画が数多く取り上げられることはご存じだと思います。

いつからそういう風潮になったのか知りませんが、1960年代から東宝が『日本のいっちばん長い日』を皮切りに「8・15シリーズ」と銘打って、お盆前後に日本の戦争映画を公開するようになったあたりかもしれません。

身も蓋もない(思い切りへりくだった)言い方をすれば、8月15日が近づくにつれ、各メディアで「先の戦争」にまつわる情報が目につくようになるので、出版界がそれに「便乗」させていただいているわけですねw

今年は戦後70年の節目、新たな総理大臣談話が出されたり、中国では「対ファシスト勝利記念」と銘打って大きなイベントをやるという話もあり、中公文庫プレミアムとしても負けてはならじと、7~8月に向けて充実したラインナップを組むべく、鋭意努力中なんですが、では、終戦記念日前後を除いた時期のラインナップはどうやって決まっていくのか、実は「なぜこの時期にこの本を出すか」という理由付けがあるのだということを、今から書こうと思います。

 

今回、私が担当したのは幣原喜重郎の『外交五十年』です。幣原喜重郎という人物は、おそらく歴史教科書などでは、昭和初期に国際協調を基本とした「幣原外交」を展開したという形で紹介されているのではないでしょうか。私も高校時代、日本史の授業で、「幣原って『へいはら』じゃなくて『しではら』って呼ぶんだ」なんてつまらない事を思いながら、必死で漢字の綴り(喜十郎ではなく、喜重郎)を覚えたものです。

その後、この人物について私が強く印象を受けたのは、大学生の頃にレンタルビデオで借りて見た映画『マッカーサー』(1977年、ジョセフ・サージェント監督)でした。グレゴリー・ペックマッカーサーに扮し、日米開戦から、日本占領を経て、朝鮮戦争トルーマン大統領と対立して解任されるまでを描いたテレビムービーです。

 

MacArthur - YouTube


MacArthur Theatrical Movie Trailer (1977) - YouTube

 

この映画のなかで、日本の占領を開始したマッカーサーのオフィスを、「プライムミニスター・シデハラ」が訪ねる場面があります。そこで幣原首相は「新しい憲法には、日本は今後、軍備を放棄するという条項を盛り込みたい」と進言します。マッカーサーは驚きつつも、戦後日本の新たな指導者の「英断」を褒め称えるという演出でした。

 

実を言いますと、この場面を見て抱いた率直な感想は「嘘つけ」でした。大学生だった当時の私も、日本国憲法は、マッカーサーの命令で、GHQの民政局員たちが2週間かそこらで作り上げ、日本に「押しつけた」ものだという知識は持っていたからです。

1977年に、NHKが「日本の戦後」というドラマシリーズを放映しており、そのなかで「サンルームの2時間 憲法GHQ案の衝撃」という回がありました(NHKオンデマンドで試聴できます)。

日本は敗戦後、進駐軍の意向を受けて、新たな憲法制定に取り組んでいましたが、出てきた草案は、マッカーサーのお眼鏡にかなうものではなかった。そこでマッカーサーは腹心のホイットニー准将率いる民政局に命じて憲法草案を作成させます。

ホイットニー准将は、外務大臣公邸で吉田茂外相、松本烝治国務大臣憲法改正担当)、白州次郎らに草案を突きつけるのですが、その場面は立ち会ったアメリカ側のラウエル中佐によって克明に記録されています。アメリカ側が「我々は席を外していますから、その間に草案(英文)に目を通してください」と庭に出て、日本側が草案を読んでいる最中、頭上をB29の大編隊が通過するなど、念の入った演出をアメリカ側は仕掛けてきたようです。

このドラマが記憶に残っていたものですから、映画『マッカーサー』で「憲法九条は日本側から申し出た」とする場面に「フィクションだろ」と反応しちゃったわけなんですね。

 

後で知ったことですが、この幣原首相自ら「軍備放棄」を申し出た場面の出典は、他ならぬマッカーサーの回顧録です。中公文庫プレミアムでも昨年7月に刊行した『マッカーサー大戦回顧録』に、その場面が出てきます。

で、一方の当事者である幣原喜重郎が、この『外交五十年』でこの件をどう述べているかは、本を読んでいただきたいところですが、あえてネタバレしますと、幣原が亡くなる年(1951年)に刊行された『外交五十年』で描かれた「軍備放棄」にまつわる叙述と、やはりマッカーサーが亡くなった年(1964年)に刊行された『マッカーサー大戦回顧録』のそれとは、「当たらずといえども遠からず」です。

 

歴史的事件の真相というものは、それについて証言する人の間で、食い違う部分もあります。それは「どっちか」が嘘をついているというような単純なものではないでしょう。憲法九条の「解釈」について議論がかまびすしく、有権者である国民の判断が関わっていく可能性が高くなっている今、「そもそも誰が憲法に軍備放棄を盛り込もうとしたのか」という視点を持つことは大切な事です。そしてそれは、一筋縄で解決する議論ではありません。

 

中公文庫の刊行日は毎月25日です。4月25日に幣原喜重郎の『外交五十年』を刊行したのは、ぶっちゃけ5月3日の「憲法記念日」を意識しての事だと言うことは、もうおわかりだと思います。

 

そして、マッカーサー幣原喜重郎が強調した「戦後日本の軍備放棄」という理念が、その後、どういう道筋をたどったかは、同時刊行の『昭和戦後史 「再軍備」の軌跡』を参照していただきたい。

 

というふうに、編集者は「どの本をどの時期に出そうか」、ない頭を絞っているものです。それは、例えば帯に書かれた文句にも影響していますので、そのあたりの事情を推理することも、「本を読む楽しみ」の一つにしていただければと存じます。

 

 

外交五十年 (中公文庫プレミアム)

外交五十年 (中公文庫プレミアム)

 

  

昭和戦後史 - 「再軍備」の軌跡 (中公文庫プレミアム)

昭和戦後史 - 「再軍備」の軌跡 (中公文庫プレミアム)

 

  

  

 

占領秘録 (中公文庫)

占領秘録 (中公文庫)

 

 

 

斎藤隆夫の『反軍演説』

 

 編集者Fです。

 

先日、民主党長妻昭代表代行が、4月23日の記者会見で「『反軍演説』復活を働きかける」とのニュースがありました。

以下、Yahoo!ニュースから引用させていただきます(毎日新聞 2015年04月23日 20時38分(最終更新 04月23日 21時39分))

 

民主党長妻昭代表代行は23日の記者会見で、戦前の帝国議会軍国主義に反対した「反軍演説」など議事録から削除され非公開になっている部分の公開に向け、衆院議院運営委員会で各党に働きかける考えを示した。自民党社民党福島瑞穂副党首の「戦争法案」発言の修正を求めた動きを念頭に、「野党が声を上げないと自由の範囲が狭くなる危機感がある」と懸念を表明した。

 

衆院記録部によると、反軍で知られた戦前の政治家、斎藤隆夫(1870〜1949年)が帝国議会で40年に日中戦争への疑問を表明した「支那事変処理に関する質問演説」(反軍演説)の削除部分を含む12件が非公開になっている。これらの議事録は95年に公開を検討したが、見送られたという。

 

この議事録から削除された斎藤隆夫の「反軍演説」は、中公文庫プレミアムが昨年刊行した斎藤隆夫『回顧七十年』で全文を読むことができます。

 

回顧七十年 (中公文庫)

回顧七十年 (中公文庫)

 

  電子版もあります。

回顧七十年 中公文庫

回顧七十年 中公文庫

 

収録した演説には、議場での反応(ヤジや拍手等)も分かるようになっていますし、また本文では演説直後の新聞報道なども引用され、この演説がどのように当時迎えられたのかが分かるようになっています。

そして、4年前(昭和11年、226事件直後)に斎藤がおこなった「粛軍演説」と、それに対する反応と比較すれば、社会の「空気」が、いかに急激に変化するものかが分かるはず。その変化は、現代日本でもじゅうぶん、教訓になることだと思います。

ぜひ、ご一読下さい!

 

 【追記】

斎藤隆夫の反軍演説の音声が聞ける動画がありました。

 


斉藤隆夫粛軍演説 - YouTube

 

 

足立巻一と『詞の八衢(ことばのやちまた)』

3月刊の中公文庫プレミアムは、足立巻一『やちまた』(上下)です。

著者の足立巻一について、司馬遼太郎は、「俗世では仙人のように自己愛を捨て、それを芸術へと昇華していった。その生き方は空海の思想に通じる。かれの大作は、すべて六十代からはじまり、歳をかさねて作品に生命力があふれるようになった。明治以後、例のない文学者であった」と評しています。
この〝大作〟が、62歳のとき上梓された『やちまた』でした。
伊勢の神宮皇學館の学生だったとき、文法学概論の講義で知った「本居春庭」に魅せられ、以後、その生涯と著作の探究にのめり込んでから、じつに40年の歳月が過ぎていました。
その40年とは、2度の召集を受けた戦争を挟む40年でした。
本書は、著者自らの半生を巧みに織り交ぜながら、本居春庭の生涯、そして書名の由来となった『詞の八衢』『詞の通路(かよいじ)』という春庭の著作の成立過程を解き明かそうとしています。
上巻巻末に再録した松永伍一氏の書評では、本書が、春庭の伝記であり、足立氏の40年間の伝記であり、『詞の八衢』という本そのものの伝記でもあるとして、「三つの時間がより合わさって一本の綱になった『総合的伝記』である」と述べられています。
自伝であり、春庭の評伝であり、『詞の八衢』の探究書でもあるというのが、本書を「文学」たらしめているゆえんかもしれません。いずれが経糸であり緯糸なのか、いつか渾然一体となり作品を織り成します。それは、文字通り「やちまた」としか評することのできないものです。
鶴見俊輔氏は、1990年刊の単行本新装版(河出書房新社刊)下巻巻末の解説で、「文法を主人公とするこの稀有の小説」と記しています。
登場人物も仮名・実名入り交じっていますし、いわゆるノンフィクションの範疇にはとうてい括れない、不思議な趣を備えている本です。
一方で、足立氏の探求心は、どんな学者やジャーナリストにも引けをとらないものがあります。夏の休暇を利用して、松阪の鈴屋遺蹟保存会に通い詰め、蒸し風呂のような一室に籠もって、ランニングとステテコ姿で春庭の草稿と格闘する著者の姿には鬼気迫るものがあります。春庭の業績を不当に軽んじてきた近代国語学界への懐疑、そして春庭の名誉回復、再評価への意志というものが根底にあったのかもしれません。
じっさい、『詞の八衢』の版本を繙いてみれば、その凄さは一目瞭然です。学校の国文法の授業で教わるのとそっくりの「活用表」が、つぎつぎに現れてきます。これが、200年以上前に、本居春庭という盲目の文法学者の手で編み出されたのでした。

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 (左は、サ行の活用図=四段活用・変格活用・下二段活用。右はハ行の図=四段活用・上一段活用・上二段活用・下二段活用にあたる) 

 

なお、今回の文庫化にあたっては、巻末に、朝日文芸文庫版(1995年刊)では割愛されていた参考文献と春庭年譜を復活し、吉川幸次郎の書評「遠景と近景の文学」を再録。そして、20代のころに本書を読んで道を踏み誤ったという呉智英氏の書き下ろしエッセイ「言葉のやちまたに迷い込む」が収録されています。

日本人のイギリス好き


英ウィリアム王子、東日本大震災の被災地を訪問 Prince William travels to ...

イギリスの若きプリンス、ウィリアム王子が、さわやかな印象を残して日本を後にしました。

イギリスと日本はともに島国であり、世襲君主を戴く民主主義国であるなど、多くの共通点があります。かつてのダイアナフィーバーや、今回のウィリアム王子来日を見ても、日本人はイギリス(そして英王室)にとても親近感を持っているようです。

こうした日本人のイギリス好きはいつから始まったのでしょうか。2月刊の中公文庫プレミアム『滞英偶感』(加藤高明・著)には、それを解く鍵が隠されています。

本書の著者である加藤高明は、大正時代に二大政党の片方「憲政会」を率いた政治家で、第二次護憲運動の後、第24代の内閣総理大臣になった人物です。彼はそれ以前、三菱の社員として、そして駐英公使、大使として、通算10年に及ぶイギリス赴任を経験していました。幕末の開国以来、イギリスは日本にとって学ぶべき「模範」であり、追いつくべき「目標」であったことは、よく指摘されているところです。それを身をもって体現した人物こそ、加藤高明であったと言えるでしょう。

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『滞英偶感』は、加藤が駐英大使在任中に、当時の日本の5大紙の一角「時事新報」に匿名で連載したイギリスに関するレポートです。ここには、イギリスの政治制度、議会、王室、税制、女性参政権、新聞、文化、生活にいたるまで、実地で見聞したことが詳細に語られています。同時に、彼がいかにイギリスに心酔しているか、アングロファイル(イギリス贔屓)の一端も垣間見せてくれます。

アングロファイルには、幕末の五代友厚、福沢諭吉以来の綿々たる系譜があります。吉田茂・健一父子もその中に入るでしょう。加藤の同時代人であった夏目漱石になると、ちょっと屈折しています。そのなかで、加藤が飛び抜けてイギリスから多くのことを学びとろうとしていることは、本書からよく読み取れると思います。

本書には、京都大学の奈良岡教授による、詳細な脚注と詳しい解題がついています。100年以上前の文章ですが、もとが口述筆記(それに講演録も2本収録しています)だっただけに、現代の読者にもわかりやすいです。

今も変わらぬイギリスへの親近感、憧れを、本書から嗅ぎ取ってみてください。

 

滞英偶感 (中公文庫)

滞英偶感 (中公文庫)

 

 

 

 

 

戦前・戦後の時間感覚……『岡田啓介回顧録』

編集者Fです。

 

今月の中公文庫プレミアムでは『岡田啓介回顧録』を担当しました。

本書は1950(昭和25)年に毎日新聞社から刊行され、その後、1977年に、ロンドン海軍軍縮会議(1930年)をめぐる岡田の日記と、池田清氏(1925-2006 政治学者。海軍出身)による日記の解説を付して、同じ毎日新聞社から再刊されました。

1987年に中公文庫に収録され、その後、2001年に改装版(中公文庫BIBLIO20世紀)が出されました。今回の復刊は三度目ですが、これまでの文庫版では省かれていた池田清氏の長文解説を、ご遺族の諒解を得て復活させました。いわば「決定版」になったと自負しております。 

 

岡田啓介回顧録 (中公文庫)

岡田啓介回顧録 (中公文庫)

 

 

 ところで、本には「帯」と呼ばれる、その本のキャッチコピーなどを書いた紙が巻かれています(腰巻と呼ばれていた時機もありました)。このキャッチコピーを考えるのは、たいていの場合、編集者の役目です。

キャッチコピーの作り方は、様々なやり方がありますが、よく使われる手法に、本文から、その本の肝ともいうべき言葉を抜き出すやり方です。今回の『岡田啓介回顧録』の帯に使ったコピーは以下のものです。

 

軍縮」から10年、戦争は「突然はじまってしまった」。

 

これは本文218ページ、「東条とのたたかい」の章の冒頭、「さて、太平洋戦争は突然はじまってしまった」から取ったものですが、なぜこのフレーズを使ったかというと、初めてこの本を読んだとき、いちばん強く印象に残った言葉だったからです。

ご存知のとおり岡田啓介は、内閣総理大臣の座にあった1936(昭和11)年に勃発した二・二六事件の標的となり、九死に一生を得たのですが、事件が鎮圧されてほどない3月9日、内閣総辞職し第一線から実を退きます。

その後も、政官界ならびに陸海軍に太いパイプを持っていた岡田は、さまざまな情報を得ていましたし、影響力を行使していたはずなので、日米開戦は「寝耳に水」ではなかったはずなのですが、それでも「戦争は突然はじまってしまった」と言わしめたのはなんだったのか?

 

日米開戦は1941(昭和16)年ですから、二・二六事件の5年後です。そういえば今から5年前(2010年)に何があったのか調べてみましたら、

 

1月/ドバイに世界一の超高層ビル、オープン
   ハイチで大震災
2月/バンクーバー冬季オリンピック開催
3月/モスクワ地下鉄で連続自爆事件
4月/タイでタクシン前首相支持派団体がデモ
6月/鳩山由紀夫内閣総辞職
   ワールドカップ南アフリカ大会開催
8月/イラク駐留アメリカ軍戦闘部隊が撤退完了
9月/尖閣諸島で中国漁船が海上保安庁巡視船に衝突
10月/尖閣諸島をめぐり中国で大規模でも
11月/北朝鮮軍が韓国の延坪島を砲撃

 

ちなみにノーベル賞化学賞を根岸英一鈴木章両氏が受賞したのもこの年でした。

この5年前の出来事を「昨日のことのようだ」と思うかどうかは、人それそれですが、開戦時に73歳だった岡田にとっては、「二・二六で押し入れの中に隠れていたのは、つい昨日のようだったのになあ」と感じられたのではないでしょうか。

 

岡田啓介は1868年、まさに明治新政府が発足したのとほぼ同時期に生まれました。海軍に入った後、日清戦争日露戦争、そして第一次世界大戦に参戦します。その1000万人ともいわれる戦死者を出した第一次世界大戦の反省から、1920年代の国際社会では世界平和が合い言葉になり、1922年のワシントン会議で主要国の主力艦保有量が制限されました。この時、日本海軍がイギリスやアメリカに比べ6割しか保有できなかった事が大きな不満としてくすぶり、1930年代の軍国主義台頭・国際社会での孤立に繋がっていくと思われますが、そのくすぶりが表面化したのが、1930年のロンドン海軍軍縮会議でした。

ご存じのとおり、岡田啓介は「条約派」として軍縮条約締結に尽力します。その顛末は『岡田啓介回顧録』に記されたとおりですが、その結果、翌1931年に浜口雄幸首相が暗殺され、32年には五・一五事件犬養毅首相が暗殺、33年には国際連盟脱退、34年には陸軍士官学校事件(クーデター未遂)、35年に永田鉄山暗殺、そして36年の二・二六事件と、まさに「一瀉千里」。

ちなみに、ロンドン軍縮会議から日米開戦までは11年。11年前の2004年に起こった主な出来事と言いますと、

 

1月/自衛隊イラク派遣開始(初の陸上自衛隊戦闘地域への派遣)。
3月/長嶋茂雄アテネ五輪日本代表監督)が脳梗塞で入院
   スペイン列車爆破事件発生
4月/イラク日本人人質事件
5月/皇太子徳仁親王「人格否定」発言
5月/小泉首相北朝鮮を訪問。拉致被害者家族5人が帰国
6月/佐世保小6女児同級生殺害事件
7月/扇千景議員、女性初の参議院議長就任
8月/北京アジアカップで、中国人観客が反日騒動
   アテネ五輪開幕
   沖縄国際大学敷地内に普天間基地所属の米軍ヘリ墜落
9月/日本プロ野球選手会ストライキ決行
10月/新潟県中越地震
11月/米大統領選挙にブッシュ勝利
    アラファトパレスチナ自治政府大統領死去
12月/スマトラ島沖地震(死者20万人以上)

ちなみにこの年、ニンテンドーDSが発売され、宮崎駿監督の『ハウルの動く城』が大ヒット、『海猿』シリーズが始まり、『ゴジラ FINAL WARS』で東宝の怪獣特撮シリーズが終了。「オレオレ詐欺」がニュースに取り上げられるようになり、流行語としては「チョー気持ちいい(北島康介選手)」「セカチュー(片山恭一作『世界の中心で愛を叫ぶ』)」「ヨン様(韓流ブーム)」「負け犬(酒井順子『負け犬の遠吠え』)」「自己責任」等々。

 

さて、上記の出来事を「昨日の出来事のよう」と感じられるかどうかは人それぞれだと思いますが、まさに、イラク人質事件で「自己責任」という言葉が流行し、そして今年の自称「イスラム国」による後藤健二さん殺害事件で再びこの言葉が浮上するまでが、ロンドン海軍軍縮条約から日米開戦までの長さという事になります。

 

ついでに、それ以前の日本史上の事件が、日米開戦の何年前だったか、2015年から同じ期間溯っての年と比較してみますと、

 

1868年 岡田啓介出生/明治維新   1942年 ミッドウェイ海戦

1894年 日清戦争          1968年 川端康成ノーベル文学賞

1904年 日露戦争          1978年 キャンディーズ解散

1914年 第一次世界大戦       1988年 リクルート事件発覚

1920年 国際連盟(日本常任理事国) 1994年 松本サリン事件

1923年 関東大震災         1997年  神戸連続児童殺傷(通称・酒鬼薔薇)事件)

 

考えてみれば、明治維新から日米開戦までは73年。今年が戦後70年ということを考えてみますと、「戦前」という期間の「時間感覚」がある程度実感できるのではないでしょうか。近代国家としてスタートし、国連常任理事国(五大国)の一国となるまで発展しながら、ついに国を亡ぼすことになるまでの「短さ」に思いを馳せては如何でしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プレスリリース/中公文庫プレミアム、吉田茂シリーズ

編集者Fです。

 

出版社では、新刊が発売になる前に、各新聞社や雑誌社にプレスリリースというものを送付することがよくあります。一般読者の皆様向けではなく、「よかったら書評等で取り上げてください」というお願い状です。

今回、吉田茂の『回想十年』全3巻が完結しましたので、以下のようなプレスリリースを一部にお送りしました。ご参考までに掲載します。

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アメリカ、キューバと国交正常化

編集者Fです。

 

今朝の朝刊で報じられましたとおり、アメリカがキューバと国交正常化に向かって動き始めました。

 


米・オバマ大統領、キューバとの国交正常化に向け協議開始へ(14/12/18) - YouTube

 

ご存じのとおりアメリカは1961年以来、キューバと国交を断絶していました。その年の4月、2年前のキューバ革命で指導者の地位についたカストロ首相は社会主義を宣言、62年にはソ連キューバに核ミサイルを搬入、ミサイル基地建設を始めたことをきっかけにキューバ危機が起こったわけです。

 

キューバ危機の顛末は、中公文庫プレミアムが第1弾として刊行したロバート・ケネディ著『13日間 キューバ危機回顧録』に詳しく綴られています。当時は第三次世界大戦の引き金になるのではないかと危惧された大事件でしたが、ケネディ大統領とフルシチョフ首相、二人の指導者の叡智によって救われたあたりは、是非、お読みいただければと存じます。 

 

ところで、これに先だって今月9日、アメリカのCIAが水責めなどの非人道的な拷問を行っていたというレポートが議会に提出され、12日にはCIA長官も事実であることを認める発言をしました。


水責めや模擬処刑も CIA拷問の実態を公表 - YouTube

 

これ以前にも、アメリカがキューバ内にあるグアンタナモ収容所で、アルカイダと関係あるとされた容疑者に拷問を行っていたことはある程度明らかになっていました。グアンタナモとは、1898年の米西戦争(スペイン植民地だったキューバのスペイン軍とアメリカ軍との間に起こった戦い)で米軍が占領し、その後独立したキューバ政府(親米政権)がアメリカの永久租借を認めた地です。1959年のキューバ革命以降もアメリカが実質支配していながら、アメリカ国内法が及ばない地なので、違法な拷問を行っていたと言われていました。

 

ブッシュ政権時代に行われたとされるCIAの拷問が報告された背景には、現在の民主党政権と共和党政権の対立があると報道されていましたが、今朝のアメリカとキューバの国交正常化を聞いてちょっと連想したのは、1961年に起こったピッグス湾事件でした。

アイゼンハワー政権時代にたてられた、アメリカの支援で亡命キューバ人部隊がキューバに上陸し、革命政権を打倒しようとした作戦で、CIAが深く関与したとされています。作戦はアイゼンハワーの後を襲ったケネディ政権に引き継がれ、発足したばかりのケネディ大統領はこれを承認するのですが、無惨な失敗に終わってしまった。キューバ社会主義勢力に入ることを促した形となった事件ですが、その後もCIAは、幾度もカストロ暗殺を試みたとされています。

 

今回、オバマ大統領は、カストロ議長と電話で会談したという事で、実に半世紀以上に及ぶ対立に終止符を打つ劇的な外交と言えるでしょう。その直前に、カストロを打倒しようと画策していた過去を持つCIAの非人道的行為が暴露された事が関係しているかどうかは知りませんが、因縁めいたものを感じた次第です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真珠湾奇襲攻撃から73年/『ハワイ・マレー沖海戦争』のこと等

編集者Fです。

 

本日、12月8日は、日本海軍の機動部隊がハワイのパールハーバー真珠湾)海軍基地に奇襲攻撃を仕掛け、日米開戦となった日です。前の記事にも書きましたとおり、日本大使館のミスで、アメリカ側に宣戦布告を通告する前に攻撃が始まってしまい、アメリカ側は「リメンバー、パールハーバー!」を合い言葉に、それまでの孤立主義をかなぐり捨てて第二次世界大戦に参戦しました。第二次世界大戦後、アメリカは国連創設など積極的に国際政治に参入し、世界を牛耳る超大国として振る舞うようになるのですが、日本の真珠湾奇襲(を受けたアメリカの宣伝攻勢)が、その一因になったと言えなくもありません(詳しくは中公文庫プレミアム『ハル回顧録』をご参照ください)。

 

ハル回顧録 (中公文庫プレミアム)

ハル回顧録 (中公文庫プレミアム)

 

 

実を言いますと、ほぼ同時刻(日本時間8日未明)、日本陸軍が英領マレー半島のコタバルに上陸し英国軍と開戦していますが(マレー作戦)、真珠湾攻撃と比較して語られることが少ない。実を言いますと、マレー作戦の開始時刻は真珠湾より1時間以上も早い上に、対米開戦と違って、宣戦布告そのものがなされていないのですが、なぜかその事を責める声があがってこない。「アメリカに対しても宣戦布告しなけりゃ、そこまで『卑怯な日本軍』『だまし討ち(スニーク・アタック)』等と非難されてなかったかもしれないな」という仮定はひょっとしたら検討に値するかもしれません。

 

ところで、真珠湾攻撃が最初に映像化されたのは、戦時中の日本です。東宝で『ハワイ・マレー沖海戦』(山本嘉次郎監督)が、奇襲攻撃1周年にあわせ、1942年12月に公開されています。

今は、動画サイトで全編見られるみたいですが、正直いって、クライマックスの奇襲攻撃シーン以外は、さほどお勧めできる映画ではないので、以下、戦闘シーンだけダイジェストにした動画を貼っておきます。

 


1942『ハワイ・マレー沖海戦』特撮ダイジェスト - YouTube

 

私がこの映画を見たのは、かなり昔で、東宝直属映画館でのリバイバル上映だったと記憶しています。円谷英二が特撮を担当したということで、特撮映画ファンの間では伝説として語り継がれる作品でしたが、始まって数分で爆睡してしまいました。その後、幾度が目を覚ましては数分見てまた眠りに落ちという状態で、ようやく目がさめたのは、ほんとうに大詰めの真珠湾攻撃が始まってからでした。

その後、ケーブルテレビで放映されたのを見直したりもしましたが、やはり面白くないものは面白くない。なぜ面白くなかったかと言うと、要するに、お話そのものがつまらないからです。

ドラマがなぜ面白いかというと、それは、人間の社会でありがちな「対立」「葛藤」「摩擦」といったマイナスの要素が軸となることで見る側の共感を得て、登場人物たちが様々な形でそうしたマイナス要素を乗り越えていくことで「感動」を生むからだと思います(もちろん、マイナスを乗り越えられない姿を描くことで、「見る者に考えさせる物語」もありえます)。

そういう意味でいうと、この『ハワイ・マレー沖海戦』には「対立」「葛藤」「摩擦」といった「主人公たちが乗り越えるべきマイナス要素」が見当たらないんですね。映画の筋立ては、海軍飛行予科練習生(14~20歳を対象としたパイロット養成機関、いわゆる予科練の学生のこと)となった主人公たちが、立派な先輩軍人に導かれて立派な飛行士となり真珠湾やマレー沖で立派に戦いました、というものですが、なにせ出てくる軍人さんは、まさに「皇軍」の名に恥じない立派な軍人ばかりで、主人公の姉(原節子)をはじめ銃後に残った家族も、「生きて帰ってきてほしい」と願うような非国民ではない立派な国民ばかりです。

戦争はいうまでもなく巨大な「対立」です。日本側からすれば、最大の敵役としてアメリカやイギリスがあるはずなのですが、映画では、なぜ大日本帝国が英米と戦争に突入しなければならなくなったかも描かれないので、主人公たちが作戦を成功させても、さして感動もカタルシスも得られないんですね。

 

このことは、多くの映画史家が指摘されていることですが、日本の戦意高揚映画には「敵」が出てこない。戦闘シーンでも、敵兵の姿はちらちら映るだけです。それは、アメリカの戦意高揚映画が敵としての日本人や日本軍を、これでもかこれでもかと憎悪の対象として宣伝したのと好対照だと、よく言われます。(↓以下は、1944年に、『或る夜の出来事』『素晴らしき哉、人生』で知られる巨匠フランク・キャプラが米国防総省の依頼で製作した『汝の敵、日本を知れ』のダイジェスト版と全編版です)

Green Day - Know Your Enemy :日本語字幕 - YouTube


U.S. war department anti-Japanese propaganda ...


Know Your Enemy, Japan - Full Lenght With ...

 

ともかく、「戦後平和主義」「戦後民主主義」視点に立たずとも、日本の戦意高揚映画はつまらないものが多い。それは「敵への憎悪」を扇動していないという意味でも「立派」だからです。憎憎しい英米兵を正しい日本人がやっつけてスカッとする内容だったら、今見ても「描き方に問題はあるけど、でも面白いな」と思えたかもしれませんが、とにかく、日本の戦意高揚映画は「立派」すぎて、感情移入できないものがほとんどなのです。

例外は、木下恵介監督の『陸軍』(1944年)くらいでしょうか。

 

映画は、息子を立派な兵士に育てようという夫婦(笠智衆田中絹代)、特に母親の立派すぎる「軍国の母」ぶりに、「戦後平和主義」「戦後民主主義」に「毒され」ていない戦前の観客も、おそらく辟易させられたのではないかと思うほど、「立派すぎてノレない」作品ですが、ラスト10分、手塩にかけて育てた息子が、晴れて兵士として出征していく姿を母親が見送る場面で、とたんに雰囲気が一変します。

戦後も語り継がれた名シーンです。クライマックスの場面だけ以下に貼っておきますが、そこに至る退屈な70分余りを見てからのほうが、より感動がますと思われますので、ぜひ、最初から通してみてほしいと思います。とにかく田中絹代、一世一代の名演技です。

 


木下惠介 「陸軍」 - YouTube

 

陸軍 [DVD]

陸軍 [DVD]

 

 

いわば「軍国の母」として立派な「公」にしたがって振舞ってきた女性が、いざ我が子の出征となったときに、ついついほとばしり出てしまう「私」。一人の女性の内面でせめぎあう「公」と「私」を、繊細な表情やしぐさで表現する名女優の肉体に、初めて「ドラマ」が炸裂した名場面です。おそらく木下恵介監督は、こういう形でしか、「立派さ」のみを要求してくる側(軍当局なのか、時代の風潮なのか)に抵抗することはできないと考えたのでしょう。

 

ともあれ、「立派」以外は許されなかった時代が、70数年前にはあったのですね。

 

 

 

復刊の楽しみと苦労……吉田茂『回想十年』

編集者Fです。

 

10月のジョン・ダワー『吉田茂とその時代』(上下)に引き続き、11月刊から「吉田茂シリーズ」(公称にあらず)の第二弾として、『回想十年』(全3巻)の刊行が開始されました。

日米関係史の権威による評伝と、吉田自身が振り返った回想録、両者を併せ読むことで、吉田茂自身や、戦後日本の出発点について、より深く知っていただければと思っております。

 

回想十年(上) (中公文庫)

回想十年(上) (中公文庫)

 

  

吉田茂とその時代(上) (中公文庫)

吉田茂とその時代(上) (中公文庫)

 

  

吉田茂とその時代(下) (中公文庫)

吉田茂とその時代(下) (中公文庫)

 

 

ところで『回想十年』は、もともと全4巻の形で、1957~58年、新潮社から刊行されました。当時は旧字旧仮名遣いでした(文庫版では読者の便宜を考慮し、新字新仮名遣いに直してあります)。その後、98年に全4巻の形で中公文庫から復刊されましたが、今回の文庫プレミアムに収録するにあたり、文庫版ではなく、新潮社版の元本を3巻に再編集するという形を取っています。

と言いますのは、文庫版というのは、必ずしも元本の単行本版そのままでないことが多いのです。著者が生きている場合、著者自身による修正や加筆が加わることが多いのは当然ですが、著者が亡くなった後で文庫化される際に、上述したように旧字旧仮名遣いを新字新仮名遣いに直したり、明らかな誤字誤植と思われるものを修正することもあります。

中公文庫の場合は、巻末でそのあたりの事情を明らかにするようにしておりますが、必ずしも〈改編〉が明らかにされていないケースも少なくありません。たとえば、戦前に活躍した有名な政治家の自伝を、単行本版と文庫版で読み比べたことがありますが、終戦直後に刊行された単行本版は最初から最後まで章分けも小見出しもほどこされないまま続いているのに、文庫版ではなぜか幾つかの章に分類され、読みやすく章題もついている。著者の没年と文庫の刊行年から考えて、著者自身が新たに章分けをしたとは考えられないので、編集者か、著作権継承者かどちらかが〈再編集〉を行ったのでしょうけれど、そのあたりの顛末がどこにも記されていないのです。

中公文庫プレミアムのように、刊行が古い書籍を文庫化する際には、そういう〈文庫化に際しての改編〉が行われているかどうかを、チェックする必要があります。このブログでも紹介しましたが、T・E・ロレンスの『砂漠の反乱』のように、もともとの『知恵の七柱』をはじめ様々なバージョンが存在し、日本語版ではさらに英語版にはないバージョンが〈編集〉されているケースもあります。

 

特に、著作権の概念が希薄だった戦前に刊行された翻訳書には、注意が必要です。たとえば、アメリカの自動車王ヘンリー・フォード(1863~1947)が書いた "The International Jew"(1920年)という本があります。7年後の1927年、日本でも『世界の猶太人網』(包荒子訳、二松堂刊)というタイトルで翻訳出版されました(国会図書館近代デジタルライブラリーで読むことができます)。

世界情勢を裏で操っているのは国際ユダヤ人ネットワークだと主張する典型的なユダヤ陰謀論で、いわばトンデモ本の元祖みたいな本ですが、トンデモないのは、本文中、唐突な形でユダヤ問題と日本との関係が語られはじめるくだりがあるのですが(76ページ以降)、なぜか〈我が日本では〉〈我が日本の識者たち〉と主語が日本人になり、〈我が隣接国たる露国(ソ連)が猶太主権下にあり、米国が半猶太国である以上、猶太民族の研究が必要なることは当然なことである〉とまで書いてある始末。

おそらくこの箇所は、翻訳者である包荒子(陸軍将校でユダヤ研究に携わった安江仙弘のこと)が勝手に挿入したとしか思えないのですが、何の断り書きもありません。

 

他にも、これは翻訳ではありませんが、東北地方の小学校での女教師と生徒の交流を綴った戦前の連作小説が、終戦後、一冊にまとめられて刊行されていますが、それぞれ独立した短編小説を、あたかも一つの長編小説であるかのように再編集したため、途中で登場人物の名前がなんの説明もなく変わったりしていて、混乱させられたこともあります。

 

上のような事情がありますので、異なる幾つかのバージョンがある著作を復刊する際には、できればすべてのバージョンに目を通して比較し、その上で、文庫化にあたってもっとも適切な(その基準は幾つかありますが)テキストを編集することが必要になってくるわけです。テキストを決定する際、著作権継承者と相談したり、専門家のご教示を仰ぐこともあります。古い本をそのまま出せばいいから楽なわけでは決してないのです。

 

というわけで、中公文庫プレミアムを何冊か同時並行的に復刊作業をしていると、デスクが古本の山で占領されることになるのですが、そのなかの楽しみの一つは、先輩編集者たちが、どのような思いでそれぞれの本を編集していったかに思いをめぐらせる事です。

今回の『回想十年』の場合、インターネットで古本屋さんから新潮社版を取り寄せたのですが、送られてきた小包を開いたとき、思わず感嘆のため息が出ました。 歴史画の大家である安田靫彦画伯(1884~1978)の装幀になる函入りの4冊本を並べた景色はまさに壮観で、戦後日本の形成期の内幕を、その牽引役となった大政治家の証言を通じて世に広めようという、編集者の意気込みを感じたものです。

 

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本の内容についても、感嘆させられました。この本は吉田が執筆したものではなく、佐藤栄作池田勇人といったかつての側近たちに対して語った内容を、文章に起こしたものです。さらに編集者による註が施され、また、吉田が語った内容に応じて、関係者の〈回想余話〉が挿入され、巻末には衆議院における演説や〈失言集〉などの付録も充実しています。手間を惜しまぬ編集とはこのこと。誤字誤植の類も、刊行当時の書籍としてはごく僅かでした。こういう本と出合ったときは、こちらも負けていられないと闘志がわくものです。

これからも、先人に負けず「手間を惜しまない本」を世に送り出したいと念じております。

 

 

 

 

 

映画『トラ・トラ・トラ!』と『ハル回顧録』

編集者Fです。

 

11月刊中公文庫プレミアムの1冊、『ハル回顧録』は、日米開戦時のアメリカ国務長官で、ハル・ノートで知られるコーデル・ハルの自伝です。

  

ハル回顧録 (中公文庫プレミアム)

ハル回顧録 (中公文庫プレミアム)

 

 

ここで個人的な思い出を語らせていただきますと、私がはじめて、ハルという人物を意識したのは、たまたまテレビで見た映画『トラ・トラ・トラ!(Tora! Tora! Tora!)』(1970年)でした。日独伊三国同盟締結によって日米関係が悪化し、やがて真珠湾奇襲という形で開戦するまでの経緯を描いた日米合作映画で、当初、日本側の監督として黒澤明が起用されましたが、撮影が始まってまもなくトラブルを起こして降板したことでも知られています。

映画ファンの中には「黒澤明が最後まで監督していれば・・・」と言う人も少なくないのですが、できあがった作品(アメリカ側監督はリチャード・フライシャー、日本側は舛田利雄深作欣二)も、なかなかよくまとまった良作だと思います(黒澤監督降板の経緯は田草川弘黒澤明 vs.ハリウッド』に詳しく書かれています)。

  

黒澤明vs.ハリウッド―『トラ・トラ・トラ!』その謎のすべて (文春文庫)
 

 

 私が最初に見たのは小学生の頃だと思うのですが、ハリウッドらしくお金をかけた真珠湾奇襲の場面が終わった後、アメリカに駐在する眼鏡をかけた日本人外交官を、白髪のアメリカ人が叱りつける場面がありました。言うまでもなく、真珠湾奇襲が始まった後で宣戦布告を通告されたハル国務長官が、野村吉三郎大使に「五十年の公職生活を通じて、これほど恥知らずないつわりとこじつけだらけの文書を見たことがない」と言った場面です。

 

その後、アメリカは真珠湾奇襲を「恥辱の日(a date which will live in infamy)」と名付け、「リメンバー・パールハーバー」を合い言葉に(それまでの孤立主義を捨てて)第二次世界大戦に参戦するわけです。

ちなみに、2001年の秋、『パールハーバー』(マイケル・ベイ監督)という映画が公開されました。山本五十六長官以下連合艦隊幕僚が、子供がたこ揚げをしているすぐ側の野外で、「尊皇攘夷」と墨書された戦国時代の幟がはためく下、作戦会議を行うという、珍妙な作品でしたが、私はたまたまこの映画を見たのは航空機を乗っ取ったテロリストが国際貿易センターに突入して自爆する、いわゆる9・11テロの直前でした。

映画では(実際には行われなかった)日本軍機による病院攻撃が描かれるなど、「反日映画ではないか」という声が日本側からあがりました。映画ファンのある学者さんと打ち合わせをした時、この映画の話題になり、「日本の真珠湾奇襲や神風特攻隊が蒸し返されるんじゃないか」と言い合ったことを覚えています。


真珠湾攻撃 the pearl harbor strike - YouTube

 

 ところで、コーデル・ハルには(ハル・ノートほど知られていないようですが)、国際連合の創設に尽力し、ノーベル平和賞を受賞したという側面があり、この回顧録でも、その経緯について詳しく触れられています。

ご存じのとおり、国際連合には第二次世界大戦における「連合国軍」の継承という意味合いがあり、だからこそ、枢軸国側にあって連合国軍と日本やドイツは「敵国条項」を適用されているわけです。

ハルが尽力した第二次大戦後の「戦後処理」が、ソ連(および配下の共産主義国家郡)というプレイヤーの参入によって苦慮を強いられるあたりも、この回顧録には描かれています。そうしてできあがった「戦後秩序」は70年を経てもなお基本的にはそのまま継続されています。そして、戦後日本はその枠組みのなかで国際政治というゲームに参加しているわけです。

刊行が開始された吉田茂回想十年』(全3巻)等と合わせて「戦後」を考える材料にしていただければと存じます。

 

回想十年(上) (中公文庫)

回想十年(上) (中公文庫)

 

 

 

開戦神話 - 対米通告を遅らせたのは誰か (中公文庫)

開戦神話 - 対米通告を遅らせたのは誰か (中公文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「国家改造」の夢・・・北一輝『日本改造法案大綱』

編集者Fです。

 

先日、ツイッターを眺めておりましたら、11月刊の中公文庫について、「中公文庫が右傾化している?」というような事を(ジョークとして)呟いておられる方がいらっしゃって、その一例として文庫プレミアムの北一輝日本改造法案大綱』を挙げてらしゃいました。

 

 

ご存じのように北一輝は、2・26事件を引き起こした青年将校の理論的支柱とされ、事件後に処刑された人物です。その人物像については様々な見方がありますが(その一例として小社刊、松本健一著『評伝 北一輝』全五巻を是非ご一読ください)、大雑把にいえば「右翼」に分類される人物であることは確かでしょう。

 

評伝 北一輝 I - 若き北一輝 (中公文庫)

評伝 北一輝 I - 若き北一輝 (中公文庫)

 

 

とはいえ、なぜ中公文庫プレミアムで北一輝の書を取り上げようとしたかと言いますと、別に「右傾」しているわけではありません。担当編集者としてはむしろ、10月刊の毛沢東抗日遊撃戦争論』と同じ系統のつもりです。

 

抗日遊撃戦争論 (中公文庫)

抗日遊撃戦争論 (中公文庫)

 

 

北一輝毛沢東には共通点があります。ご存じのとおり、北一輝は23歳のとき、『国体論及び純正社会主義』でデビューし、自らを社会主義者として「自認」していました。さらに中国の辛亥革命にも身を投じています。 

国体論及び純正社会主義(抄) (中公クラシックス)

国体論及び純正社会主義(抄) (中公クラシックス)

 

 そんな北一輝がなぜ超国家主義者に変貌していったのかは、中公文庫版『日本改造法案大綱』に解説を寄稿していただいた嘉戸一将先生のみごとな分析をぜひお読みいただきたい。

で、北一輝毛沢東ですが、二人にもっとも共通するのは、単に西洋の社会主義を模倣しただけでなく、自国の状況に合わせて、具体的な革命(北の場合は「国家改造」)のシナリオを提示した点であると思います。

毛沢東は、『抗日遊撃戦総論』に収録した論文「湖南省農民運動視察報告」において、湖南省の貧しい農民が「農民協会」として組織され、支配階層であった地主や富農を攻撃することで、従来の秩序を破壊する様を「大事業」として賞賛し、この運動を全国に広めていくことで革命運動を成功させるべきだと唱えたわけです。

その手法は荒っぽいものでした。毛沢東によれば、湖南省の農民たちは地主や富農を「三角帽子をかぶせて村を引き回す」「監獄にぶち込む」さらには「銃殺」することで農村に「恐怖状態」を作り出したわけです。当時の中国共産党指導部には、この運動を「ゆきすぎ」で「むちゃくちゃ」な「ごろつき運動」と非難する声もあったのですが、毛沢東は「すばらしい」と賞賛したわけです(このあたりは、吉田富夫先生の解説をご参照ください)。

 

さて、一方の北一輝はどうでしょうか。

日本改造法案大綱』はもともと、『国家改造案原理大綱』というタイトルで大正8(1917)年に発行されたのですが、たちまち発行禁止処分になったので、問題箇所を削除して改題し、大正12年に改造社から刊行されたものです。プレミアム文庫版の口絵に改造社版の冒頭部分の写真を掲げましたが、いきなり「三行削除」「十一行削除」「八行削除」「五行削除」「七行削除」と文字が並び、実に36行にわたって削除を施したことが明らかになっています。プレミアム文庫版では、削除した部分を『国家回想案原理大綱』で補い、具体的にどの箇所が削除されたか(すなわち、刊行当時の当局がどういう部分を危険視・問題視したか)が明らかになるよう編集いたしましたが、その削除された冒頭部分で北はいきなり「三年間憲法を停止」し、議会を解散し、「全国に戒厳令」を布き、この間に私有財産の制限、華族制度廃止、財閥解体などの「国家改造」を行うよう提言しています。

 

戒厳令とは、緊急事態に際して勅令により、一時的に国家の統治権(行政権立法権司法権)を軍隊に委譲する命令をさす言葉で、日本では日比谷焼き討ち事件(1905年、ポーツマス条約を不満とした集団が起こした暴動)、関東大震災(1923年)、そして2・26事件(1936年)の際に「戒厳令」が布かれたと言われています(厳密な「戒厳令」かどうかは法理論的に議論の余地があるようです)。

 

いわば三権分立ではない、国民の権利が一部制限された状態で、粛々と「国家改造」を行うべしというのが北一輝の思想です。そうなると問題になるのは、こうした「国家改造」への抵抗勢力を誰が統御するのかが問題です。特に私有財産の制限を強行しようとすれば、資産家は反対するでしょう。ことによってはロシア革命後の内戦のように、武力を持って抵抗し争乱状態が惹起されるかもしれません。

 

そうした懸念を宥めるように、北一輝は「国家改造」の執行者として「在郷軍人団」を指名しています。退役軍人を組織し、私有財産制限に抵抗する者を摘発し懲罰すれば、「国家改造」は「騒乱なく」、粛々と実行されるであろうと言うわけです。

 

ここは非常に興味深い点です。毛沢東は、貧しい農民による「恐怖状態」を人為的に作り出し、いわばカオス状態のなかで新しい秩序を樹立しようと提唱したわけです。かたやカオス状態のなかで行われる革命を目論み、かたや規律正しい秩序だった国家改造を夢みた。

 

この差は、単に北一輝毛沢東との個人的資質によるものなのか、それとも、日本と中国の歴史や風土に根ざすものなのか。そんなことを考えながら読んでいただければと願っております。

 

といって、別に中公文庫プレミアムが「左傾」しているわけではありませんので、念のためw