中公文庫プレミアム 編集部だより

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広島原爆投下70年に寄せて

編集者Fです。

 

今回は中公文庫プレミアムの話題ではありませんがご容赦ください。

 

今夜、NHKスペシャルとして放映された「きのこ雲の下で何が起きていたのか」は、原爆投下3時間後、爆心地からわずか2キロの地にある御幸橋の上で撮影された2枚の写真を中心に、被爆者たちが味わった悲劇を再現しようとした力作でした。写真にうつっていた50人余の人のうち2名がご健在で、しかも、その場に居合わせた方が30名以上見つかって証言を寄せられたそうです。

 

↓NHK広島放送局の特設ページ。予告編が見られます。

www.nhk.or.jp


 

最初は、「原爆投下から70年以上もたっているのに、特定の場所に居合わせた被爆者の方がそんなに大勢見つかるなんて」と不思議だったのですが、やがて理由が明かされました。当時の広島市は、成年男子の多くが戦場にとられ、さまざまな職場が人手不足だったので、穴埋めとして大勢の中学生男女が勤労動員されていたそうです。原爆が投下された1945年8月6日午前8時15分頃、爆心地となった広島市の中心部では、大勢の勤労動員された子供たちが働いていたわけですね。

 

そのなかの1人に、お話をうかがった事があります。元日本サッカー協会会長の長沼健さん(1930~2008)です。

 

2000年の3月30日、2年後に開かれる2002年日韓共催サッカーワールドカップに向けて、私は『日本サッカーはほんとうに強くなったのか』という本を編集していました。

サッカージャーナリストの大住良之さんと後藤健生さんが聞き手となって、育成・報道・国内リーグ運営・サッカーの歴史といった多角的な角度から、キーマンに話をうかがうという構成でした。 

 長沼健さんは、日本代表選手として初めて参加したワールドカップ予選(1954年。韓国と2試合を戦う)に出場してゴールを決めた選手であり、1964年と68年のオリンピックでは代表監督を務め、98年ワールドカップ初出場時の協会会長と、まさに日本サッカーの生き字引でした。

最初に、戦前、長沼さんが、当時はまだメジャーではなかったサッカーに触れるあたりのことを伺っている時、実は広島で被爆したご経験を語ってくださったのです。

 

当時、長沼さんは広島高等師範附属中学校の2年生。小学校ではじめたサッカーどころではなく、軍都・広島の工場に動員され働く毎日でした。長沼さんの言葉を、以下に引用します。

 

当時、学校防衛当直というのがあった。…空襲警報が出ると一つのクラスの生徒全員が学校に集まって、徹夜で警戒するわけ。…八月五日の晩に空襲警報が出たので、われわれのクラスが学校防衛当直に駆り出された。…六日の早朝になって警戒警報に切り替わった。先生が生徒を集めて「昨夜はご苦労であった。みんな徹夜したから、きょうは工場へ行く必要はなし。自宅へ帰ってそれぞれ寝ろ」と言われて、「ありがとうござい」って解散したんです。私は当時、強制疎開で市内の自宅を壊されて、現在のビッグアーチのあるあたり(郊外)に住んでいた。そこまで自転車をこいで帰る途中に、原爆を落とされたわけです。…先生が解散させてくれたのが三十分遅れていたら、(投下された時間には)ちょうど原爆ドームのあたりを走っていますから、人生終わっていたでしょうね。完全に消えていた。

 

その翌日、当時の長沼少年は、行方不明の近親者を捜しに広島市内へ向かい、地獄絵図を目の当たりにします。

 

広島や長崎だけでなく、多くの戦場で、空襲にあった各都市で、「偶然」によって生死をわけることになった人々が本当に大勢いらしたのだろうなと思わされます。日本はこの70年、戦争をしていません。ただ、夏が来る度に、こうやって戦争にちなんだ活字や映像に触れる機会を作っていくことの大事さを、出版界の末端にいる身として考え、形にし続けていきたいと、改めて思いました。